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名古屋高等裁判所 昭和63年(ラ)143号 決定

抗告人 森田幸男 外1名

事件本人 森田和典 外1名

主文

原審判を取り消す。

事件本人森田和典を抗告人両名の特別養子とする。

理由

一  申立の趣旨及び理由

抗告人らは、主文同旨の裁判を求め、その理由は、本件特別養子縁組成立の申立を却下した原審判はその結論において不当であるということにある。

二  当裁判所の判断

1  本件記録によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  抗告人幸男(昭和25年2月15日生)と抗告人規子(昭和21年7月28日生)は、昭和46年11月30日婚姻の届出をした夫婦であるが、長年実子に恵まれなかったため、自らの手で子供を育てたいという希望が強かったところ、抗告人規子の郷里北海道旭川市にいる友人の紹介で、昭和59年11月2日当時生後3か月の事件本人和典を引き取って養育するようになり、昭和60年1月23日に同人と養子縁組の届出をした。

(二)  事件本人和典の実母である事件本人淳子(昭和24年1月18日生。以下「淳子」という。)は、北海道上川郡○○村で出生し、中学校を卒業後バスガイドとして働いていたが、昭和40年に山下大介と婚姻し、2人の子供(長女恵理・昭和41年1月14日生、長男俊介・昭和42年7月21日生)をもうけたが、昭和45年に同人と協議離婚し、その後昭和46年に川島義一と婚姻し、長女めぐみ(昭和48年1月18日生)をもうけたが、昭和54年7月27日に協議離婚した。その後淳子は俊介及びめぐみと3人で(前記長女恵理は、淳子の両親の養子となって引き取られていた。)旭川市で暮らしていたが、昭和57、8年ころから中学校の先輩である香川武と親しく交際するようになって妊娠し、昭和59年7月14日に事件本人和典を出産した。

事件本人和典の実父香川武は、当時郵便局に勤務していたが、妻子があったため、淳子と同棲生活をしたことはなく、事件本人和典の出産には反対であって、その出産費用も出さず、同人を認知することもしなかった。そして香川武は、事件本人和典を養子に出すことを勧め、同人とは生後2回しか会っておらず、父親としての愛情は全くない状態である。

また、香川武の妻子は、事件本人和典のことは全く知らされていない。

(三)  淳子は、事件本人和典を妊娠中から生活保護を受けており、当時、中学生の俊介、小学生のめぐみと事件本人和典の3人の子供を抱えて、旭川市内のアパートで経済的に苦しい生活をしていたところ、昭和59年10月ころ、友人の紹介で抗告人らが養子を求めていることを知り、前記のとおり、同年11月2日に右友人宅で事件本人和典を抗告人らに引き渡し、翌60年1月23日抗告人らと事件本人和典は養子縁組の届出をした。

淳子は、当初、できれば事件本人和典も自分の手で育てたい気持ちであったが、同人が男の子であることを考えると、自分一人の手で育てるよりも、両親が揃っていて経済的にも恵まれ、環境の良い抗告人らに育てられた方が同人の幸福につながるものと考え、事件本人和典を抗告人ら夫婦の養子とすることに決心したものである。

(四)  その後間もなくして、淳子は、2人の子供を連れて北海道を離れ、神奈川県川崎市内のパチンコ店に住み込みで働くようになり、同所で先輩従業員の木村正彦(25歳で淳子より15歳下)と親しくなって、昭和61年3月16日にかおるを出産し、同年4月22日に右木村正彦と婚姻した。現在、淳子は、夫正彦と娘めぐみ、同かおるの4人で、相模原市内の居室1部屋のアパートで生活しているが、夫正彦は昭和61年8月ころ前記パチンコ店を罷め、一時定職がなかったが、現在は会社勤めをしており、淳子は昭和62年7月ころからクラブのホステスをして働いており、生活は安定していない。

なお、淳子は、昭和59年11月に事件本人和典を抗告人らに引き渡して以来、同人に会ったことはなく、夫正彦には、事件本人和典のいることを秘密にしている。右のような事情から淳子は、今後とも事件本人和典とのかかわりを持ちたくないと考えており、事件本人和典の幸福のためにもと、本件特別養子縁組の成立に同意している。

(五)  抗告人幸男は、国鉄職員であった父一男、母千代子の長男として岐阜県不破郡○○町で生育し、高等学校を卒業後、会社員(営業係)となり、昭和46年11月、旭川市で知り合った抗告人規子(高校卒業後、会社勤めをしていた。)と結婚して○○町で新所帯を持った。その後抗告人幸男は、会社員を罷め、昭和59年7月に独立して仕事をするようになり、昭和60年1月以来、既製服の製造販売を目的とする株式会社○○を経営して現在に至っている。抗告人ら夫婦は、昭和52年から抗告人幸男の実家で両親と同居していたが、昭和63年2月からは岐阜市内にマンション(3DK)を賃借して、事件本人和典と3人で暮らしている。抗告人幸男は、○○町に不動産があり、前記会社(従業員6名)を経営していて約100万円の月収があり、経済的には豊かで安定している。そして、抗告人らは2人とも健康で夫婦仲は良く、事件本人和典を実子同様に愛情を持って監護養育しており、○○町に住む抗告人幸男の両親も事件本人和典を孫として可愛がっている。

(六)  事件本人和典(5歳)は、昭和59年11月に生後3か月で抗告人らに引取られて以来、抗告人らに懐き、順調に成育しており、健康状態も良く、昭和62年4月からは岐阜市内の「○○幼稚園」に通園し、その生活にも適応している。抗告人ら夫婦の監護養育状況に格別の問題はみられない。

(七)  抗告人らは、常々、戸籍謄本などの書類から第三者の目にも事件本人和典が養子であることが明らかであり、しかも、同人は非嫡出子で父親の欄が空白であることなどに苦痛を感じていたところ、今般特別養子縁組制度の実施されたことを知って、事件本人和典の将来の幸福のために、同人との関係をできるだけ実の親子関係に近いものとしたいと考えて、本件特別養子縁組成立の申立(以下「本件申立」という。)をしたものである。

2  ところで、本件は、いわゆる普通養子縁組から特別養子縁組への転換を求める事案であるが、右普通養子縁組がなされた時点においては未だ特別養子縁組を認める改正法が施行されておらず、その縁組成立の申立をする余地がなかったのであるから、本件申立は普通養子縁組を経ずに特別養子縁組の申立をした場合と同様に取り扱い、これにつき民法所定の特別養子縁組成立の要件が存在する限り、これを認容するのが相当と解される。

しかして、前記認定の各事実及び本件に現れた諸事情を考慮すると、抗告人ら夫婦において特別養子縁組の養親となるべき要件を具備しているのはもちろん、事件本人和典についても、民法817条の7所定の要保護性の要件が充足されているものと認めるのが相当である。すなわち、事件本人和典の実母である淳子は、2度の結婚に失敗して2人の子供と共に暮らしていたところ、妻子ある男性と関係をもって事件本人和典を出産したが、実父より認知も受けられず、生活保護を受ける状況であったところへ、抗告人らとの養子縁組の話があって同人を引き渡し、間もなく普通養子縁組をしたものであり、その後淳子は、ふたたび再婚して所帯を持ち、さらに1子をもうけたが、生活も安定しておらず、現在の夫には事件本人和典のいることを秘密にしている状況にあるものであるから、右養子縁組当時のみならず現在においても、実親父母による事件本人和典の監護が著しく困難又は不適当である場合に該当すると認められるのである。

そして、抗告人ら夫婦は、昭和59年11月に生後3か月の事件本人和典を引き取って以来、現在に至るまで、自分らの手元で同人を監護養育してきたものであるところ、その家族関係も良好で、経済的にも安定した状態にあり、事件本人和典に対しては実子に変わらぬ愛情を持って養育をしており、すでに両者の間には実子に変わらぬ親子関係が形成されているとみることができること、他方、実母淳子は前記認定のごとき複雑な家族環境にあって、今後とも事件本人和典との接触を断つことを望んでおり、将来、両者間に親子関係の回復が期待される状況にないと認められることなどを合わせ考えると、抗告人ら夫婦と事件本人和典との間に特別養子縁組を成立させ、同人の実方の血族との親族関係を終了させることは、事件本人和典の身分関係の安定をもたらすと共に、前記従来の親子関係をより安定、強固なものにすることに資するものと考えられるのであって、事件本人和典の現在及び将来の利益のため特に必要があると認められる。

したがって、本件申立は認容し、事件本人和典を抗告人両名の特別養子とするのが相当であり、これを却下した原審判は失当である。

三  よって、本件抗告は理由があるから原審判を取り消した上、家事審判規則19条2項により本件申立を認容することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 浅香恒久 裁判官 窪田季夫 畑中英明)

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